機関紙 - "私たちのことを忘れないで" 〜福島県双葉町を6年間継続取材〜
京丹波町にケーブルテレビ局が開局して今年で14年。ここに勤務するEさんは、開局前(旧瑞穂町)から携わり、「住民一人ひとりと皆をつなぐのが、ケーブルテレビの役割」と番組づくりに取り組んでいます。その視点は、京丹波町の友好町、福島県双葉町を震災直後から取材し続けるなど、広い視野に立ったものです。
住民一人ひとりと皆をつなぎ、元気を届ける京丹波町ケーブル局
Eさんは三和町生まれ。広い世界を夢見て、北海道大学理学部化学科に入学。もっともっと学びたいと大学院へ。しかしバブルが崩壊し、みるみる就職環境は悪化。友人の一人は、40社受けて内定は1社あるかないか、当時はこれが当たり前でした。
そんな時に、瑞穂町のケーブルテレビで嘱託職員を募集と聞き、応募、2003年1月に採用。翌年、職員採用試験を受け、正職員になりケーブル局で勤務しています。
手探りから出発うれしかった初授賞
瑞穂町のテレビ局は、2004年開局(2005年合併で京丹波町)。当時は、手探り状態で、週一本のニュース番組を作成していましたが、いろいろな人から「近所に素晴らしい人がいるから紹介してほしい」と声がかかるようになり、地域で頑張っている人に登場してもらう企画番組を作成。放送は、住民からも好評で、番組作りの手ごたえを感じたと振り返ります。
「農業で頑張っている方」を紹介する企画で、伏見甘長とうがらし農家の「孫が唐辛子を食べてくれない悩み」を解決する番組をつくりました。これが、全国有線テレビジョン協議会の審査員特別賞を受賞。「本当にうれしかった」とEさん。NHKに就職した大学の友人は、第一線でバリバリ活躍しており、?自分は何をやっているのだろう?と焦りがあったといいます。それから、Eさんたちは総務大臣賞など様々な賞を受賞します。
胸が締めつけられた被災地の現状
2011年3月、東日本大震災が起こります。京丹波町の友好町で福島第一原発のある双葉町は、全住民避難の事態になり、京丹波町は、住民挙げて支援に取り組みました。地元の高校生が作ったクッキーに「涙が出るほどうれしかった」とお礼の手紙が届きます。この話を聞いたEさんは、その人の話を聞きたくなり、双葉町の避難所の埼玉県加須市へ向かいました。
お礼の手紙を送ってくれたのは、働き盛りの男性。「おいしくて、お礼の気持ちを伝えたくて」と話し始めると、津波のこと、原発事故のこと、故郷を離れる時の気持ちなど、堰を切ったように話してくれました。「その表情と言葉に胸が締め付けられた」とEさんは振り返ります。さらにその方は原発関係で働かれていた方で、「こんなことになって」と複雑な想いを語ってくれました。最後には「前を向いて頑張る」「わしらのことを忘れないでほしい」と語ってくれ、心と心が繋がった、温かい気持ちになったといいます。この時の番組には、住民から反響もたくさん寄せられ、同協議会の優秀賞、京都広報賞の会長賞を受賞します。
伝えたいのは真実と住民の姿
Eさんは、それから福島へ25〜26回ほど足を運び、50以上の番組を放送してきました。
仮設住宅の自治会長さんに「現在の双葉町を見てほしい」と声をかけられ、震災から1年半後に無人の双葉町に入り取材しました。
双葉町の実像は?衝撃だった?とEさん。地震や津波で破壊された家々がそのまま放置され、人は誰もいない。背丈を越える草が生い茂り、家屋を飲み込もうとしている。思わず、京丹波町がこんなことになれば…と考えたといいます。
同時に、伝えることの難しさも感じています。「震災のしんどい話は聞きたくない」という声もありました。番組で伝えたいのは、真実と困難な中で頑張っている住民の姿や想いです。
住民に理解してもらうためにも、もっと勉強しようと震災や原子力関係、さらには社会学をはじめ、思想や哲学など、様々な本を読み、個人的に京都大学防災研究所で開催される学会や神戸の震災を伝える勉強会などに積極的に出席しています。しかし、「悩みは聞いてもらえるが、答えは出ない」とEさん。「いろんな対立構造があるなかで、第三の道があるのではないか。人の笑顔や頑張っている姿、うれしい気持ち、これを伝え続けることが問題の解決につながるのでは」とEさんの言葉に力が入ります。
2018年、町民に元気を届けるケーブル局の仲間の活躍が始まっています。
京都自治労連 第1911号(2018年1月5日発行)より